志村けんさんが死亡されました。志村けんさんは実家である東村山音頭で東村山市を広めてくれた人ですね。そこで東村山市出身の志村けんさんの功績に感謝状を贈呈時に、「志村けんの木」と名付けられたけやきの木3本が植えられたとのこと。渡部市長は「志村さんの死を無駄にしたくありません」志村けんさんのために献花台を置いてくれたとのことです。志村けんさんの生い立ちから現在の死去されるまでを追ってみました。
志村けんさんへのお別れは東村山の志村けんの木に触れにゆきたいですね。
・・・ということで志村けんさんの志村けんの木はどこになるのか、調べてみました。
「志村けんの木」とは?
東村山市出身のコメディアンである志村けんさんは「東村山音頭」等を通じて、当市の名を全国に広めてくださいました。その功績に対し、市が感謝状を贈呈したことをきっかけに、昭和51年、東村山駅東口ロータリー(グリーンバスのバス停付近)に、市の木である「けやき」が3本植樹されました。このけやきを「志村けんの木」と呼んでいます。
記念樹看板の設置
この度、市制施行50周年を記念し、市内の新しい名所の一つとして多くの皆さんに親しんでいただけるよう、志村けんさん直筆の記念樹看板を設置しました。
ぜひ皆さんで、訪れてみてください。
「志村けんの木」記念樹看板
志村けんさんを想い、ここにお別れにくるファンは沢山いるのではないでしょうか。
以下のように沢山の人達がこの場所を訪れています。志村けんさんへの想いが伝わります。
届いているでしょうか。けんさん・・・
ファンのお別れのしきはいつ?についてはこちらをどうぞ↓
志村けんさんの生い立ちについて調べてみました。
志村けんさんの生い立ち
livedoor引用
家族について…
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志村けんさんの家族は、祖父母、両親、叔母、兄2人の8人の大家族でした。
小学校教諭だった志村けんさんの父・憲司さんは、とても厳しい方だったそうです。
柔道5段の腕前で、躾にはとても厳しく、お仕置きで殴られることも多く、怖くて口をきけないほどの存在だったとのこと。
父親が大黒柱でもあるため家庭を支配し、重苦しい雰囲気が家に漂っていたと、コメントしていましたね。
ですが、テレビのお笑い番組で漫才や落語を見ているときだけは、父の憲司さんも笑いをこらえながらテレビをみて、珍しく声を出し笑った父・憲司さんの姿に衝撃を受けたそうです。
そして、これを契機に、友だちを笑わすことに熱中する少年になっていった志村けんさん。父親の存在って大きなものなのでしょうね。
名前の由来・・・
そして、志村けんさんの芸名は、父親の名前【憲司】に由来しています。
定番の芸である、爺さんのコントは、憲司さんをモデルにしたものだそうです。
しかし・・・
父・憲司さんは、志村けんさんが正式にドリフのメンバーになる前に亡くなられてしまいました。ですので、志村けんさんのコントで笑うことが出来ずに旅立ってしまいました。
お母様の和子さんは、長生きしてくれたそうですね。2015年には母・和子さんは96歳でお亡くなりになりました。お母さまの存在は唯一の理解者であり、ファンだったそうです。
高校卒業後、コメディアンになることを後押ししたのは母の和子さんだったとのこと。母は偉大ですね!!
志村けんさんの下積み時代
お笑い芸人を志し、高校卒業後にザ・ドリフターズの一番下っ端の見習いとして志村けんさんの修業がスタートしたのですが、それがものすごい大変な道のりだったそうです。ではいってみよう!
そして、志村けんさんと同じく、いかりや長介さんに弟子入りを直談判してドリフターズの付き人になったという5歳年上の井山淳さんもいました。
逃げちゃった?
修行の道のりは決して順調ではなく、実は69年秋ごろ、志村けんさんは付き人から一度失踪しているようですね。辛い修行に耐えられなかったのでしょうか。実のところは不明ですが当時はこんな噂が流れたようです。
・あまりの修行のつらさに逃げた
・同じボーヤ仲間の井山淳とコンビを組みたいといかりやに告げたところ、
許しが得られなかったため出ていった
・コメディアンとして社会勉強をしていた
他にもいろいろな噂が飛び交っていました。しかし、やはり修行にもどりたいと思っていた志村けんさんは、一年後に、
ドリフターズの加藤茶さんの口利きで付き人に復帰できたとのことです!
井山淳さんとコンビ「マックボンボン」を結成
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その後、井山淳さんとコンビ「マックボンボン」を結成し、ドリフの地方巡業の前座に出演するようになります。
「マックボンボン」のネタは、ボケの井山淳さんに志村けんさんが「何を言ってるんだよ!」と顔面を蹴ってツッコむというスタイル。
コントはウケたようで、72年の新番組『ぎんぎら!ボンボン!』にレギュラー出演していました。
しかし、パッとせず、番組自体も同年12月に終了します。
マックボンボンは実績がほとんどなかったため、実力が伴わず視聴率を下げ、わずか3ヵ月で打ち切りとなりました。その後ショックをうけた相方の井山淳さんは失踪してしまいます。
マックボンボンは解散し、志村けんさんはドリフの付き人に戻りました。
その後の飛躍までの時間は何年もかかりました。下積み時代ですね。
その後・・・
志村けんさんドリフターズメンバーから大スターへ
1969年10月、『8時だョ!全員集合』がスタート。
1974年に志村けんさんはザ・ドリフターズの正式メンバーへと昇格。
しかし、志村けんさんは何をやってもウケない日々が3年も続いたのそうです。メンバーに昇格したにも関わらずウケない…って辛いですね。
売れっ子志村けんの誕生
ここで、今回の志村けんの木の東村山音頭が出てくるわけですね!!
『少年少女合唱隊』コーナーで、志村けんさんの地元の替え歌『東村山音頭』が大ウケ。
ドリフターズの一員として志村けんさんが世間に認知された瞬間でした。
その後も、「ヒゲダンス」など、何をやっても笑いをとれるようになったのですね!しかし、髭ダンスは当時、みんながこの歩き方を真似しましたよね。
その後は、ドリフターズの後には
「加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ」
お茶の間を笑わせてくれましたね。ずっと覚えているものですね!
「志村けんのだいじょうぶだぁ」
何度見ても笑えますよね。昔も今も何も変わらないのですね。人間の笑いのツボって。ほんと、神様ですね!
「志村けんはいかがでしょう」
ひひひ・・・と出てくるだけでにやけてしまいますね!!
「天才! 志村どうぶつ園」
二人のやりとりが本当に可愛らしくて大好きでした!!
子どもから大人まで楽しめる番組に出て皆を楽しませていましたよね。
お別れの日・・・
そんな志村さん、2020年3月29日に死去されました。これからまだまだ人々を笑わせていたいと思っていたという志村さん。
新型コロナウイルスによる感染で重度の肺炎になり、人工心肺や未承認薬を試すも旅立ってしまいました。
昭和から令和まで時をまたぐ笑いの神様、ありがとうございました!
ご冥福を心からお祈り申し上げます。
志村けんさんが、日本人を代表してコロナに未承認薬を試してくれていたんです!自分の身体を使って頑張ってくれていました!!やはり神ですね!
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